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アンジュビュルジュ・ド・ダヌマルク(Ingeburge de Danemark, Ingeborgとも, 1175年 - 1236年7月29日)は、フランス国王フィリップ2世の2度目の王妃。デンマーク王ヴァルデマー1世と最初の王妃ミンスク公女ソフィアの末娘。イザンブール(Isambour)ともいう。ここではインゲボルグとのカナ表記を用いている(実際には''インゲボー''の表記が正しい)。 1193年8月15日、フィリップ2世の後添えとして結婚。美しく気だての良い、王も目を見張るブロンド女性だったという。しかし、結婚翌日に王が心変わりし、結婚の無効を宣言。王妃はソワソンにいたローマ教皇ケレスティヌス3世に抗議した。 王の突然の翻意については、「新婚初夜にまるで男性機能が働かず、王はこれは魔女の仕業であると決めつけた。」という逸話がある。 教皇は彼女を援護し、王に王妃と暮らすよう厳命したが、王は教皇庁使節と面会せず、結婚の無効という自分の主張のみ言い立てた。母国に帰ってまで恥をさらすのを拒んだインゲボルグはフランスにとどまり、教会を盾に王と対決し続けた。そのうち、「独身」であったフィリップは、メラン公ベルトルド4世の娘アニェスと1196年に結婚した。アニェスとの生活で2人の子供ができるが、1199年、突然彼は彼女を追い出し、インゲボルグを王妃として呼び戻した。これは、一時的でも同居して教皇を欺くためであったのだが、この仕打ちを王が自分に飽きたせいだと悲観したアニェスは病死してしまった。王は芝居が済んだと見るや、アニェスの死はインゲボルグのせいだと、今度は彼女をエタンプの城に閉じこめた。デンマークからの召使いは遠ざけられ、塔の一室に閉じこめられた。満足な食事も与えられず、部屋も不衛生だった。教皇はフランス全土の教会に「聖務停止」の命令を下した。ミサも、洗礼も、結婚も、葬儀も行われなくなった。このため埋葬されない遺体が墓地に並べられ、伝染病が流行した。 1213年、エノー伯を攻めていたフィリップは、イングランド海軍の応援を受けたフランドル軍との戦いで完敗し、フランス海軍の帆船の大半を失った。そこで脳裏によぎったのは、ヨーロッパ最強の海軍を持つデンマークだった。当時の王はインゲボルグの兄ヴァルデマー2世であった。フィリップはインゲボルグの幽閉されていたエソンヌの小島に急いだ。彼女は生きていた。王の来訪を聞いてひざまずく彼女の手を取り、王は長年の虐待を詫び、インゲボルグを解放した。 デンマークの応援を得たフランスは、ジョン王との戦いに快勝した。それからのち、フィリップが死ぬまで、そばにインゲボルグは王妃として常にいた。臨終の際、王太子ルイ(ルイ8世)を呼び、王はインゲボルグの行く末を頼んだ。「このマダムには、苦労をかけたから…」と涙したという。 ==参考文献== *「フランスの歴史をつくった女たち」第一巻 ギー・ブルトン 中央公論社 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「インゲボルグ (フランス王妃)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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